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铁壶知识
宮崎寒雉 宫崎寒雉

宮崎家(みやざきけ)は、江戸時代から加賀藩の御用釜師として続く、金沢の釜師の家です。
 

宮崎家の先祖は、能登国中居(穴水町)の住人で代々鋳物師であったが、天正九年(1581)宮崎彦九郎義綱が能登国主として七尾にいた加賀藩初代藩主前田利家(1538~1599)に召出され、天正十一年(1583)利家が金沢に入城してから木ノ新保に千坪の屋敷地を与えられ、武具などの鋳造にあたったといわれています。
 

宮崎家の初代となる宮崎彦九郎義一(1633?~1712)は、三代藩主利常(1594~1658)の御抱鋳物師宮崎彦九郎吉綱(1586~1657)の二男といわれ、京都の名越三昌浄味(~1638)の門人となったとされますが定かではなく、師とされるのは名越昌高(~1639)、大西浄清(1594~1682)、大西定林(~1727)など諸説あります。
 

小松に隠居していた前田利常が、慶安五年(1652)京都より仙叟宗室(1622~1697)を招き、仙叟は小松城内の三の丸に屋敷を給わり、宮崎彦九郎吉綱とも交流があったともいわれます。
 

利常没後の寛文元年(1661)五代藩主綱紀(1643~1724)が初めて金沢に入り、このとき仙叟宗室には百五十石の扶持が与えられ、金沢城下の味噌蔵町に屋敷を与えられることになり、茶室臘月庵(ろうげつあん)を構えたといいます。
 

宮崎彦九郎義一は、仙叟宗室に釜作りの指導を受け、寒雉菴号の名を受け、藩御用釜師となり、以後代々宮崎家は寒雉菴彦九郎を襲名し家業を継いで、現在は十四代宮崎寒雉が裏千家の釜師として製作を続けています。

宮崎家歴代
初代 寒雉 彦九郎、義一、徳翁、正徳二年(1712)歿
二代 寒雉 彦九郎、尚義、享保十三年(1729)歿
三代 寒雉 彦九郎、尚申、銭屋寒雉、安永二年(1774)歿
四代 義二 彦九郎、安永四年(1776)歿
五代 尚行 彦九郎、寬政八年(1797)歿
六代 尚友 彦九郎、寬政十一年(1800)歿
七代 尚植 彦九郎、寬政十一年(1800)歿
八代 義光 彦九郎、享和三年(1803)歿 
九代 義尚 彦兵衛、彦九郎
十代 尚幸 彦九郎
十一代 寒雉 彦兵衛、大正四年(1916)歿
十二代 寒雉 彦九郎、昭和三十九年(1964)歿
十三代 寒雉
十四代 寒雉

石川県小松市那谷寺大悲閣鰐口に「宮崎豊後守 吉綱」とあります。
 

石川県金沢市妙典寺雲龍文花瓶に「加州金沢妙典寺日随代 寛文七丁未九月十八日 施主 清光孫作 同埋忠七兵衛 宮崎彦九郎義一」とあります。
 

石川県羽咋郡志賀町専念寺梵鐘に「元禄四年末八月廿八日 能州羽喰郡徳田之庄 徳田村照明寺常住物也 願主 釋壽誓 右奉加之施主 七百五十余人 門徒中 外三十余人挙属 治工宮崎寒雉入道義一」とあります。
 

石川県七尾市称念寺釣鐘に「元禄九年十一月廿八日 能登郡羽坂村永教寺 寄進 冶工加州金沢住宮崎彦九郎義治」とあったといいます。
『茶道筌蹄』に「寒雉 初代浄味の弟子也、宮崎彦九郎と云ふ、加賀二代目利長公召てカマ師となる」とあります。
 

『茶家酔古襍』に「寒雉 宮崎氏、彦九郎、名義一、父を彦九郎と云鋳物師也、加賀の人、上京して三昌の門人となる、加賀に皈りて金沢に住す、薙髪してのち寒雉と号す、依て入道寒雉と称す、名人、正徳二年死す、大講堂、ナタ、小アラレ、乙姥口、栢葉、一艸庵好み責紐」「寒雉 彦九郎、名尚義、享保十一年死す」「寒雉 彦九郎、名常晩、寒雉と号す、安永二年死す、世に銭屋寒雉と云」「義二 彦九郎、安永四年死す」「尚行 彦九郎、寬政八年死す」「尚友 彦九郎、寬政十一年死す」「尚植 彦九郎、寬政十一年死す」「義光 彦九郎、享和三年死す」「某 初彦兵ヱ、後彦九郎と改む」「尚幸 彦九郎」とあります。
 

『寛永十九年小松侍帳』(嘉永六年古写本謄写本)に「二百石 三の丸 千宗室」とあります。寛永十九年(1642)には、江岑宗左が紀州徳川家に二百石茶道頭として召し抱えられています。

 

 

 

 
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